チャーチ・オブ・ゴッドのお知らせのページです
下の写真はシェルホン師が日本宣教のビジョンが与えられた横浜港の今の姿です
ゴージャパン

Go ! Japan!


   

「ゴー! ジャパン」――

チャーチ・オブ・ゴッド創始者レイモンド・シェルホン先生

日本宣教への召命のあかしダウンロード

一九七六年秋 川崎教会・宣教祈祷会にて

高校生活も最後の年になった三年生の時、私は厳しい両親から離れて、自由になりたい一心から軍隊に入ることを決心した。  軍隊に入れば、外国に行くことも出来る!  今から三十年前の十一月二十一日、私は米国陸軍の一兵士として、日本へ向かう船の上にいた。初めて本国を離れたその時、私は教会へは毎週行っていたが、真のクリスチャンではなかった。

 

船はいよいよ東京湾に入り、横浜の港に近づいた。その時、私が見たもの、それは私たちが乗っている船の周囲に集まって来る沢山の小舟と、小舟から手にした空き缶に、私たちの船から捨てた残飯をすくい上げている光景であった。  貧困!昭和二十一年、それは日本の一番苦しい、惨めな時であった。彼らの様子を初めて目にした時、「この人たちのために何か出来たら…」という思いが湧き上がって来るのを覚えた。しかし、その時の私にできることは、何もなかった。

船を降りて、厚木のキャンプで一週間を過ごし、横浜に駐屯した。そして、そこでも、またもやあの船上から見たのと同じ光景を見たのだった。朝も、昼も、夕方も、私たちの食事が終わる時間になると、駐屯地の周囲の金網の間から空き缶を差し出して、食物を乞う人たち、残りものを入れた大きなバケツから、次々とその残飯を持ち運ぶ姿! 「少しでも、私の食べ物を残してあげよう。」当時の私にできることはそれだけであった。

「何か、これ以外にこの人たちのためにできることはないのだろうか?」と思わない日はなかった。
ある晩、当時盛んであったGIゴスペル・アワーの集会に出席して、そこで初めて、「イエス・キリストは私の罪のために十字架にかかって死んで下さった」というメッセージを聞いた。勿論、それまで、米国にいた時、毎日曜日、礼拝に出席していたのだが、真のクリスチャンではなかった。イエス様を信じてはいたが、自分の罪が赦され、救われた者、という確信はなかった。  兵士として外国へ来たものの、私の心は飢え渇いていた。それから、集会へ出るたびに、私の心は救い主イエス・キリストによる命がけの福音に惹かれていった。

 

一九四六年十一月の土曜日の夜、イエス・キリストが私の罪のために身代わりになって十字架に死んで下さったことを心から受け入れ、罪を告白し、悔い改めの祈りをした。翌日の日曜日は、他の兵士たちも出席している「青年をキリストへ」の集会の礼拝に出席した。そこで私は、当時、横浜の生麦にあった商業高校の尾崎先生に出会った。先生の「ぜひ私の学校に来てバイブルクラスをして下さい。」という招きを受けて、救われたばかりの者に何を教えることができるだろう」という思いはあったが、お引き受けした。その時から毎週土曜日には、どこかでバイブルクラスを持つ道が開けた。

 

ある日曜日の夜のGIゴスペル・アワーの集会で、戦争中も日本に残留しておられたメイベル・フランシス宣教師がメッセージをされた。先生はメッセージをされる度に、いつも「兵士の皆さん、日本でキリストの救いに与ったあなた方は、日本の宣教のために働くべきです。日本人の救いのために献身してください。」とメッセージを締めくくられた。私は先生のメッセージを聞く度に、 「日本にいる間は日本のために働こう、喜んで…。しかし、米国へ帰ったら、私のしたいことをしよう」。日本の将来のために、自分の全ての人生を生きようとは考えてもいなかった。私のしたかったこと、動物も植物も大好きな私の夢は畑を耕し、家畜を飼うことであった。早くアメリカへ帰りたい、広い農場で仕事をしたい。何度もフランシス先生のチャレンジを聞くうちに、その招きに耐えられなくなって、メッセージがフランシス先生とわかっている集会には出席しなくなった。

 

いよいよ米国へ帰る時が来た! 喜びと夢で私の胸はふくらんだ。
「日本から離れたら二度と日本の宣教のことなど思いもしないだろう。」 心の底には日本宣教の重荷がある反面、私はそれを頑なに拒否し続けていた。
 「さようなら、日本!」
 船は横浜の桟橋を離れ、東京湾から太平洋へ進んでいく。見送りに来てくださった沢山のお友達、堀兄弟、妹のトクさん、バイブルクラスのお友だち、彼らの姿がだんだん小さくなって、もう日本が全然見えなくなるまで、船のデッキに立ち続けていた私に、神様が語りかけられた。  「あなたは日本の宣教師になってくださいますか? いいえ、宣教師になってください。」
厳粛な神の召しの声に、私は何の抵抗もなく「はい」と答えた。その瞬間、私の心の中に変化が起こった。魂に対する熱い思い! 食物に飢えている人々! 「そうだ、この人たちに永遠に朽ちないパン『イエス・キリスト』をお伝えしなくては!」たった今、別れてきた日本、喜び勇んで米国へ帰る筈の私に、失われていく日本の人々のために宣教師として生涯を献げる決断がなされたのである。私のたった一つの夢、懐かしい祖国での農場での仕事も、家族も、友も全てを神様に献げた瞬間だった。  この時から、私の心は不思議なほどに日本宣教の事でいっぱいになった。
  日本で福音を伝える! 主よ、導いてください! 助けてください!

 

マッカーサー元帥は、今こそ、日本に福音を伝えるべきときだ!と強調していた。日本へ宣教師として戻ることは簡単な事だと思えた。しかし現実は、どこの宣教団体も、四年間の神学校での学びと、訓練を受けなければ、宣教師として派遣することはできない、と言われた。私は一刻でも早く日本へ戻りたいのに。一日も早く、この素晴しい福音を伝えたかったのに。 神学校の課程を修了する以外に方法が無いことが分かって一九四八年秋、私はオハイオ州シンシナチ市にあるゴッズ バイブル スクールに入った。入学して二年目の九月、アーネスト・キルボーン宣教師(東洋宣教会)のお母様、へイゼル・キルボーン宣教師が学校の宣教祈祷会に来られて、当時の東洋の様子を語られた。(注 中国が共産勢力に支配され、その危機が朝鮮、日本にも及ぶかと思われていた頃のこと。) そして、言われた。  「今こそ、日本に福音を伝えるべき時、チャンスです! 青年たちよ、今、あなた自身を主に献げなさい。今、あなたを必要としています。」と。聖霊と確信に満ちたこの声、メッセージの後、再び私の心に静かに神さまは語られた。  「兵隊になって、日本へ帰りなさい」と。キルボルン師に祈って頂きたかったが、沢山の人々が先生を取り囲んでいたので、一人で神に祈った。 軍隊に戻るのには抵抗があったが、主は日本へ帰る道をそのような形で示してくださった。その時から、私はそのことについて断食の祈りを続けた。

『それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまでいつも、あなたがたとともにいます。』マタイ 二八・一九〜二〇

 

「軍隊に入って日本に戻りたい」と最後に母に相談した。その時、母は「主の御旨と確信することに全く従いなさい。」と励ましてくれた。翌朝、早速入隊の手続きをした。  一九四九年十一月十六日(父の誕生日)に再び軍隊に志願入隊した。日本に戻り、すぐ元の働きに入れると期待して、一九五〇年二月八日、日本の土を踏んだ。再び、確実に日本へ、それも東京に帰るには、米国陸軍第一騎兵師団に所属しなければならなかったが、埼玉県の朝霞基地に配属された。これは戦争では第一線で戦う師団であったので、絶え間ない訓練の連続であった。

 

以前、バイブルクラスで出会った芳賀さんが、私の通訳になってくださるという事であったが、訓練に続く訓練で外出することなど思いもよらなかった。六週間の訓練、二週間の仙台での訓練が終り、これで外出も可能と思っても、次から次への演習と訓練で、なかなか道は開かれなかった。私は神の御旨を誤ったのか?従うことに失敗したのだろうか、あれは神の語りかけではなかったのだろうか?  しかし、四月!やっと外出が許された。生麦、大磯のバイブルクラスの働きがいよいよ始まった。主の導きは真実であった。「一生、日本での宣教活動を主はさせてくださる」と確信していた。毎週毎週、あちこちでバイブルクラスのご用をした。  日曜日は、大磯のバイブルクラスでご用をした。日本で救いの恵みを頂いて、二週間目に責任を与えられたクラスであった。私はうれしかった。この働きが、これからの中心になるのか、同労者がこの働きから与えられるのか…と、期待していた。

 

一九五〇年五月の日曜日、特別に主の祝福を感じた集会を終わって、田んぼ道を歩いて帰途に着いたが、「戦争、戦争、GI、ゴー、バック」と、男の人が叫んでいた。何のことだろう。横浜まで帰って分かったことは、朝鮮戦争の勃発だった。キャンプへ全ての兵隊は戻るようにと指令が出ていた。だが、私はあまりのショックで、その ままキャンプへ戻る気にはなれず、芳賀さんの家に行った。門限までには帰ることにして。

この晩、キャンプに帰ってみると、すべての建物には電気が灯り、明るかった。朝鮮へ移動する準備で大騒ぎだった。戦争の訓練が夜通し始まった。  日本を出発した日は覚えていないが、戦争の勃発から間をおかず日本を出発した。私は朝鮮へ戦争をしに行くために、日本へ帰ってきたのではない。主よ! 私は試みの中にあったが、確信を握り続けた。どうして戦争が始まったのか?いろいろの疑問が渦巻く中で。

朝鮮戦争への出発の前日、私のことを良く知っていてくれた上官が「日本へ残りたいなら、上官に願い出てはどうか?残る人たちもいるのだから…」と言った。しかし、私は「お願いします」とは言えなかった。この部隊の中で私は『生まれ変わり』を経験したたった一人のクリスチャンだった。クリスチャンであると証している私が戦争に行かなかったら、戦争が怖いから行けないのだ、と躓く人が起こるだろう。 「私は行きます。」「人を殺すことができますか?」「できません。」主は必ず助けてくださると信じた。鉄砲を持って朝鮮に上陸した。南から北まで戦場を駆けめぐったが鉄砲を使うことはなかった。主は絶えず助けてくだった。毎日毎日祈りの場を探した。一人で祈るところを。その間も日本への幻は消えなかった。

 

戦争はだんだん激しくなり中国も参戦した。いつ帰れるのだろう。そのようなある日、日本にいた時に注文した日本語のトラクト一万枚が場所もあろうに、朝鮮の戦場に送られてきた。その当時の朝鮮では、ほとんどの人が日本語を理解することができたので、朝鮮での一年間、このトラクトを配布した。それは私にとって主への働きとなった。この一年は決して無駄な一年ではなかった。主の摂理は素晴らしい。一年の後、一番最初に本国アメリカへ帰還する特権が与えられたが、私にとってそれは決して特権ではなかった。

「日本に帰りたい!」思い余った私はマッカーサー元帥に直訴の手紙を書いた。「日本でも兵士の必要があるので少数の者は日本へ行く」と聞いていたからである。私と一緒に朝鮮戦線に行った兵士のほとんどは本国へ帰って行った。しかし、マッカーサー元帥からの返事は来なかった。私の士官は「あなただけが最後に残った。あなたが帰らなければ私たちも帰ることができない」と言った。私は「もう一週間だけ待ってください。もう一週間だけ日本へ帰れる許可を待ちたいのです。」そして、主は私の祈りに応えてくださって、その二、三日後にその許可がGHQから届いたのだ。

日本に戻り、東京のGHQでブース大将の秘書として夜の十時から朝七時までの夜間の仕事が与えられた。昼間の時間が自由に使える!  朝鮮へ行く前に始めた川崎市民米語学校での英語クラスとバイブルクラスがあった。一日も早く宣教の働きを始めたいと願いながら、しかし、一ヶ月、主の御旨を求めて祈った。主は、「川崎へ帰りなさい。」と導かれた。川崎の市民米語学校での働きが始まった。一九五一年八月。

 

その実は、美智子師、小野兄姉、山口兄姉、と次から次へと魂が救われ、結実された。  従えば、すべてが私の思い通りになるのではない。信仰に固く立って従い続け、歩み続けるなら、主は必ず実を結ばせてくださる。  神さまは、私などよりもっと優れた器を選んでおられてはいないだろうか。しかし、その人が従わなかったので、次の私を選んでくださったのでは・・・・・。